悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉の母、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉は物心ついた時からいつも一緒だった。
閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。
電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。
物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。
しかしそれが悠人のいじめにつながった。
活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。
逆らったりすると余計にいじめられる、そう思い、悠人はその中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。
そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。異性としてはまだ意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。心配もかけたくなかった。 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファンタジー映画だった。日常生活においてパッとしない少年が、ある事件を境に魔法を使う能力に目覚め、仲間を集める旅に出て、世界を守る為に魔物と戦う物語。その世界観に、悠人は夢中になった。
それから悠人は、その類の書物をむさぼるように読み出し、空想に身をゆだねるようになっていった。両親が買ってくれるゲームにおいても、そういった冒険物にのめりこんでいった。
小説であれ漫画であれゲームであれ、一度その世界の中に入っていけば、キャラクターの行動を疑似体験することが出来る。それは何の価値も見出せない自分であっても、ある意味存在する意味があるかのように思える至福の時間だった。 ある日クラスの男子たちに囲まれ、本を奪い取られる事件が起こった。生きていく為に不可欠なアイテムを奪われたことで、その時初めて悠人は、学校で感情をあらわにした。
「返せ、返せっ!」
悠人が大声で叫ぶ。何をしても無反応だった悠人の激情に、一瞬男子たちは驚いた。
しかしすぐに、「泣―いた泣いたー、よーわむしがー泣いたー」
そう言って笑い出した。
その笑いは教室全体へと広がり、悠人は世界そのものが自分を否定し、嘲笑っているように感じていった。「返せええええっ!」
悠人が叫ぶ。その時男子の一人が、悠人の本を窓から投げ捨てた。
自分は何も悪いことはしていない。なのになぜ、こんなことをされなければいけないのか。
そんな思いと失望感に重なって、喘息の発作が彼を襲った。悠人はその場に倒れこみ、胸を押さえてうずくまった。 その時だった。「お前らああああっ!」
声と同時に、隣の教室から小百合が走ってきた。
一瞬の出来事だった。悠人を囲んで笑っている男子たちに、小百合の蹴りが見舞われる。その剣幕にひるみ、男子たちが後ずさった。
「よってたかって一人をいじめて、弱虫はあんたらの方だ!」
「なんだよ水瀬、お前、悠人のことが好きなのかよ」
男子が発したその言葉に、一瞬小百合の顔が真っ赤になった。しかしすぐにその男子を睨み付け、
「うるさい! 悠人は私の弟だ! 姉弟が一緒にいて何が悪い! 悠人をいじめるやつは許さない!」
そう叫んだ。その勢いに男子たちが慌てて小百合から遠ざかった。
「悠人、大丈夫? 悠人、悠人!」
悠人が目を覚ますと、傍らに小百合が座っていた。 気が付いた悠人を見て、小百合が安堵の表情を浮かべる。あの後悠人は気を失い、その悠人をおぶって小百合が保健室まで運び込んだのだった。あれから2時間、小百合は授業にも出ず悠人に付き添っていた。
呼吸も落ち着いていた。枕元には、小百合が探してくれた本が置いてあった。
「気がついた? 発作はもう治まってるみたいね。歩いて帰れるかな」
保険医の先生が優しくそう言った。悠人は無言でうなずき、起き上がった。
「ありがとうございました。失礼します」
そう言って小百合が頭を下げる。悠人も無言で頭を下げ、保健室を後にした。
帰り道。 夕日で長く伸びた二つの影が並んでいる。二人は無言で歩いていたが、やがて悠人が、唇を噛みしめながらぼろぼろと涙を流した。「うわあああんっ」
爆発した感情が、これまで抑え込んでいたあらゆるものを吐き出していく。
何も出来ない自分への憤り、自暴自棄の感情が止まらなくなっていた。その時悠人の手に、暖かいぬくもりが伝わってきた。悠人がはっとすると、小百合が悠人の手を握っていた。
「小百合ちゃん……」
小百合も泣いていた。
唇を真一文字に結び、ひっくひっくと肩を上げ下げしながら、悠人の手を握る力が強くなっていく。やがてそれは限界点を超え、悠人も驚くような大声で小百合も泣き出した。「うわあああああんっ!」
いつも、どんな時でも元気で笑っている小百合が。あんなに強いはずの小百合が。悠人の前で大声で泣いた。
その勢いにおされ、悠人の涙が引っ込んでしまった。「悠人、ごめん、ごめんね……うわああああん!」
その場にうずくまり、小百合が膝を抱えて泣きじゃくる。
「悠人が辛かったのに、私気付いてなかった……ごめんね、ごめんね悠人……うわああああん!」
初めて見る小百合の姿。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、小百合は言葉にならない言葉を続けた。
「……」
自然に悠人が、小百合の頭を撫でていた。小百合の頭に、悠人の小さなぬくもりが伝わっていく。
「ごめんね、小百合ちゃん……」
小百合が顔を上げると、悠人はハンカチで小百合の涙を拭った。
「頑張るから……小百合ちゃんが泣かないように頑張るから……だから小百合ちゃん、泣かないで」
これまで見たことのない、悠人の優しい笑顔。
その笑顔に涙は止まり、そして胸の中に、熱い何かがこみ上げてきた。 頬がほんのりと赤くなっていく。 深呼吸した小百合が、ゆっくりと立ち上がる。そして悠人の頬に残る涙を、自分のハンカチで拭いていく。「悠人、ごめんね……」
「ううん、ごめんね、小百合ちゃん……」
謝りながら、互いの顔を拭きあう二人。
そしてやがて、その奇妙な行為にお互いが気付き、笑い出した。「あはははははっ」
二人で手を握りながら歩く道のり。いつもより握り合う手に力が入っていた。
「悠人、これからもずっと一緒だよ」
「うん」
小百合が夕日をみつめながら、歌を歌いだした。
父と悠人と一緒に行ったアニメ映画の主題歌。小百合はその優しいメロディが大好きだった。 そして悠人は、その歌を歌う小百合が大好きだった。あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)
「悠〈ゆう〉兄ちゃん、泣いてるの?」 夕焼けに赤く染まった公園。 ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」 そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。 3月3日。 終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。「お疲れ様でした、悠人さん」 悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。「ありがとう、菜々美ちゃん」 悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。 その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」 悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。 工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。 アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」「そうだね……次の連休あたりになら」「あ、ありがとうございます!」 菜々美が嬉しそうに笑った。 コンビニに入った悠人は、ハンバー
「何の冗談だ、これは……」 この40年、幼馴染の小百合〈さゆり〉以外に心を奪われたことのなかった魔法使いの俺に今、こいつは何を言った? アニメにしてもクレームものだぞ。 幼馴染からのとんでもない話に、悠人〈ゆうと〉の頭は混乱した。その悠人に、小鳥〈ことり〉が背後から抱きついてきた。 さっきとは違う感覚。自分との結婚を望む少女の抱擁に、悠人が顔を真っ赤にして小鳥を振りほどいた。「待て待て待て待て、冗談にしても質が悪い。エイプリルフールもまだ先だ」「大好き」「人の話を聞けえええっ」「聞いてるけど……あ、ひょっとして悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、好きな人とか付き合ってる人とかいるの? お母さん以外に」「いや、そんなやつはいないが……」「よかった、なら小鳥にもチャンスあるよね。3ヶ月の間に小鳥の想い、いっぱい伝えてあげるからね」 悠人の混乱ぶりを全スルーして、小鳥がそう言って無邪気に笑った。 時計を見ると22時をまわっていた。「もうこんな時間。ご飯まだだよね、ごめんね」 そう言って小鳥は、悠人が買ってきたコンビニ弁当を電子レンジに入れた。「悠兄ちゃん、こんなのばっかり食べてるの?」「腹が膨らめばなんでもいいんだよ、俺は」「そっかぁ……やっぱり男の一人暮らしはダメだね。これからは小鳥が毎日、おいしいもの作ってあげるからね」 そう言って小鳥は、リュックからパンを出した。「そういうお前はそれなのか」「うん。今日はバタバタすると思ってたから」 悠人がそのパンを取り上げる。「育ち盛りがこんなんでいい訳ないだろ。これ食べろ」 そう言って、レンジから出した弁当を小鳥の前に置いた。「でもこれは、悠兄ちゃんのお弁当で」「俺は腹が膨らめば何でもいい、そう言っただろ。お前こそしっかり食べないと。色々とその……栄養偏ってるみたいだし」 と言い
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小
あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。
悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉の母、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉は物心ついた時からいつも一緒だった。 閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。 電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。 二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。 物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。 赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。 しかしそれが悠人のいじめにつながった。 活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。 逆らったりすると余計にいじめられる、そう思い、悠人はその中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。 悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。 そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。異性としてはまだ意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。心配もかけたくなかった。 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファ
「何の冗談だ、これは……」 この40年、幼馴染の小百合〈さゆり〉以外に心を奪われたことのなかった魔法使いの俺に今、こいつは何を言った? アニメにしてもクレームものだぞ。 幼馴染からのとんでもない話に、悠人〈ゆうと〉の頭は混乱した。その悠人に、小鳥〈ことり〉が背後から抱きついてきた。 さっきとは違う感覚。自分との結婚を望む少女の抱擁に、悠人が顔を真っ赤にして小鳥を振りほどいた。「待て待て待て待て、冗談にしても質が悪い。エイプリルフールもまだ先だ」「大好き」「人の話を聞けえええっ」「聞いてるけど……あ、ひょっとして悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、好きな人とか付き合ってる人とかいるの? お母さん以外に」「いや、そんなやつはいないが……」「よかった、なら小鳥にもチャンスあるよね。3ヶ月の間に小鳥の想い、いっぱい伝えてあげるからね」 悠人の混乱ぶりを全スルーして、小鳥がそう言って無邪気に笑った。 時計を見ると22時をまわっていた。「もうこんな時間。ご飯まだだよね、ごめんね」 そう言って小鳥は、悠人が買ってきたコンビニ弁当を電子レンジに入れた。「悠兄ちゃん、こんなのばっかり食べてるの?」「腹が膨らめばなんでもいいんだよ、俺は」「そっかぁ……やっぱり男の一人暮らしはダメだね。これからは小鳥が毎日、おいしいもの作ってあげるからね」 そう言って小鳥は、リュックからパンを出した。「そういうお前はそれなのか」「うん。今日はバタバタすると思ってたから」 悠人がそのパンを取り上げる。「育ち盛りがこんなんでいい訳ないだろ。これ食べろ」 そう言って、レンジから出した弁当を小鳥の前に置いた。「でもこれは、悠兄ちゃんのお弁当で」「俺は腹が膨らめば何でもいい、そう言っただろ。お前こそしっかり食べないと。色々とその……栄養偏ってるみたいだし」 と言い
「悠〈ゆう〉兄ちゃん、泣いてるの?」 夕焼けに赤く染まった公園。 ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」 そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。 3月3日。 終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。「お疲れ様でした、悠人さん」 悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。「ありがとう、菜々美ちゃん」 悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。 その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」 悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。 工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。 アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」「そうだね……次の連休あたりになら」「あ、ありがとうございます!」 菜々美が嬉しそうに笑った。 コンビニに入った悠人は、ハンバー